【KIYOってこんな人!】失敗も含めて過去を赤裸々に語ってみました!

お読みいただきましてありがとうございます。

 

旅好きアフィリエイターきよ(@kiyo_vacation)です。

 


私は、岩手県出身で1978年7月生まれの都内IT系企業に勤める42歳独身男性です。

 

数あるブログの中から、この記事を見つけてお読み頂いている奇跡に感謝です。

 


この記事は、私という人物を知っていただく為に、良い部分だけでなく、失敗やダメなところも含めて赤裸々に書きました。

 


この記事が、あなたとの信頼を築く一歩となればうれしく思います。

 

この記事を読むとこうなる
SNSを駆使したアフィリエイトに取り組む私(@kiyo_vacation)という人物を、短時間で知ることができます。

この記事が、あなたが私と共にSNSを駆使したアフィリエイトに取り組むか決める上でひとつの判断材料になります。

【初心者必読!】これを読めば分かる!アフィリエイトの基礎!

2019年10月4日

活発で人気者だった小学生時代



メッキ加工技術者の父と幼稚園教諭の母の間に次男として生まれました。


私の家は、両親とも真面目で比較的しつけが厳しい共稼ぎ家庭でした。

週6で朝早起きして勤めに出て、夕方に帰宅する生活を長年続けた両親のストイックさを見て育ちました。

それが影響し、私も小学校3年から高校卒業まで、学校を休んだことがありませんでした。


学校の成績が学年で1番良く、活発で積極的な性格で友達が多かったこともあり、5年生まで学級委員長をやっていました。


6年生では、生徒会長をやり学校内ではかなり目立つ存在でした。

走るのが速く、200メートルと走り幅跳びの選手でした。成績は市内3位。

サッカー、ソフトボール、水泳の選手でもあり、市内の大会に出ました。

また、地域の老人クラブの方と、ゲートボールチームを組み、数々の大会に出ました。


ゲートボールを通じての3世代交流の取り組みが珍しいとのことで、TVに2回出ました。


1年生の頃から数字に強い興味を持ち、それに気づいた母親が近所のそろばん塾に通わせてくれました。


先生のスパルタ指導に耐えた甲斐があり、4年生の時に市内の大会の小学生の部で1位になりました。

 

6年生の時には珠算1級、暗算4段まで昇級しました。

バスケットボールと伊集院光のラジオに夢中だった中学時代

当時、リアルタイムで連載されていて大人気だったスラムダンクの影響で、部活はバスケットボールを選びました。


練習はきつかったのですが、頑張った甲斐があり、ガードのポジションでレギュラーになれました。


背番号は6。

しかし、代々弱小バスケ部のレッテルを跳ね返すことができず、大会では毎回、大差で1回戦負けでした。


弱すぎて練習試合をしてくれる学校があまり見つからないほどでした。

 

隣町でやっと勝てそうなチームを先生方が頑張って探して来るほど相手に事欠く有様。

ちょっと遠くまでわざわざ出向いて行った練習試合で1回勝っただけの弱小チームでした。


中学でも走るのは速い方で、2年生の時に走り幅跳びの選手として市内の大会に出場しました。

 

中学1年生の時に、ニッポン放送で開始されたラジオ番組「伊集院光のOH!デカナイト」にドハマりしました。

毎日夜更かししてラジオにかじりつき、寝不足の毎日でした。


友達が番組に出したハガキが、学校対抗の面白ネタを披露しあうコーナーに採用されました。

そんなきっかけで、中学3年生の夏に番組に電話で出る機会がありました。



かなり緊張しましたが伊集院さんと話せた時のうれしさは今でも鮮明に覚えています。


十代の多感な時期の気分が落ち込んだりして辛かった時期に、毎日ラジオを通じて面白いトークで救ってくれた伊集院さんは、今でも憧れの人です。


小学校1年生から通い始めたそろばん塾では、中学2年生時に1度だけですが中学生以下の部で県大会で1位になりました。



3年生で塾通いを辞めるまでに珠算は4段、暗算は8段まで昇段しました。



数年前に、そろばん塾の恩師を尋ねたところ、いまだに私を超える生徒は出ていないとのことで、ちょっと誇らしくなりました。

 

学校の成績は、常に学年で6位前後でした。正直、勉強があまり好きではなく、日頃全く勉強しませんでした。



テストの前日にだけ異常な集中力を発揮し、一夜漬けで主要5科目500点満点中480点くらいを取っていました。



田舎過ぎて学習塾がなく、進学する高校の選択肢も実質ひとつでした。

 

1週間くらいだけ社会と理科の暗記科目だけ受験勉強して、地域で1番の進学校に合格しました。

挫折した高校時代

部活はバスケ部に入りました。



入部して驚いたのが市内や隣町の中学のキャプテンがほぼ全員集まっているエリート集団だったことでした。

 

弱小中学出身で体格的にも体力的にも劣っていた私は、早々に練習についていくモチベーションを失いました。

 

結局、半年でバスケ部を辞めてしまいました。



文武両道をモットーにしている高校だったので、部活に参加していない状態というのは肩身が狭かったです。



バイトも校則で禁止で、学習塾もない田舎です。

 

勉強も好きではなかった私は、毎日放課後にやることを見つけられませんでした。

 

工業高校に通っていた部活を辞めて暇を持て余していた友達と遊ぶ日々。

 

それにも飽きると、レンタルビデオ店に行き、映画やドラマを借りて観まくっていました。



ニッポン放送の伊集院光さんのラジオ番組が終わり、TBSラジオで「深夜の馬鹿力」が1995年頃に始まりました。

 

その頃、聞き始めたTBSラジオの声優の椎名へきるさんのラジオ番組のファンになり、葉書ネタ職人をやったりしていました。



投稿したネタハガキが結構な割合で次々に採用され、ノベルティグッズをたくさんゲットしました。



伊集院さんが出演していたTV番組にもネタ葉書が採用され、スノーボードの板をゲットしたこともあります。

 

この経験で、徐々にマスコミ業界への憧れが強くなっていきました。



3年生時の学校の成績は、学年約300人中の真ん中ぐらい。



しかし、県内の進学校7校の中で最下位の成績の学校であったため、現役で大学に進学できるのは上位3割位の生徒だけ。



母親の意向で大学に進学するなら国立大学専願と言われていた事もあり、夏ごろに勉強の遅れをリアルに実感。

 

ようやく焦り始めて、それなりに受験生活を頑張るも、センター試験の成績は偏差値50。

 

私は、東京に憧れていた田舎の少年でした。

東京に近い国立大学で自分でもなんとか届きそうな偏差値の大学という基準で、埼玉大学経済学部経営学科を志望。


ボーダーラインに10点くらい足りない状態で2次試験を受験。


英語と数学の2科目受験で、英語だけは得意で偏差値70あったため、合格できると思っていました。

しかし、数学が半分くらいしか解けず、受験に失敗。


親に頼み込み、仙台で浪人させてもらうことに。

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偏差値が10伸びた充実した浪人生活

仙台での受験生活は、充実していました。


厳しい寮生活もあり、規則正しい生活を強制されていたので、一切学校をサボる事もなく、成績も順調に伸びました。


高校教師が給料を稼ぐために行う趣味に偏った教え方の授業とは全く質が異なることに驚愕しました。

 

受験で得点を取るために特化した大手予備校のプロ講師の授業に感動し受験勉強にのめり込みました。

国立大学専願で失敗できないプレッシャーを感じる毎日でした。

しかし、寮内のハイレベルな受験生との情報交換や切磋琢磨を経て、センター試験本番では偏差値60の結果でした。


偏差値60は上位16%です。


旧帝大7校の一角である東北大学経済学部のボーダーラインも一応クリアしていました。

 

しかし、当時東京への憧れがとても強かったです。

 

また絶対に受験に失敗できないというプレッシャーもありました。

 

結局、安全策でA判定(合格可能性80%以上)を取っていた、埼玉大学経済学部経営学科を再受験。



2年連続で数学に苦戦しつつも、得意の英語でカバーして合格。

 

晴れて大学生に。

趣味に明け暮れた大学生活

大学では、父親の意向で生活費が激安で済む寮生活をすることになりました。



しかし、この寮生活がとにかくしんどかったです。

 

法律で取り壊しが義務付けられるほど古い築年数の木造の建物。

 

常に大量の蟻がわくような劣悪な住環境の8畳くらいの部屋に3人の相部屋。



しかも、ルームメイトの一人が先輩が強制除籍にリーチがかかる8年目の4年生。

 

お酒さえ飲まなければよい先輩なのです。

 

しかし、卒業する気もなくやることがないので、ほぼ外出せずに部屋でこもりっきり。

 

毎日安い酒を飲みアルコール中毒状態。

 

ゲームに明け暮れ、人生が上手く行っていないことを時々八つ当たりされる有様。



さらに、夜な夜な先輩方が徹夜で集まる数部屋隣の麻雀部屋で、消し忘れのタバコの火が原因の火事が起きる始末。

 

TOKYO FM等で普通にニュースになるなど、健全な学生生活には程遠い、非常に良くない環境でした。



それでも、父親は経済的理由で一人暮らしに反対しました。

 

バイトして生活費を稼ぐから一人暮らしをさせてほしいと母親を説得。

 

大学2年からは、同じ田舎から埼玉で働きに出てきた一つ下の後輩とルームシェアをすることにしました。



生活費も割り勘で、基本的に自炊していたため比較的安く済みました。

 

それなりに楽しかったのですが、後輩の方がフリーター生活では将来が見えないとのことで、1年ちょっとで引越すことに。



同じ市内で1Kのアパートを借り、一人暮らしをすることにしました。



その頃、パソコンの基本ソフトWindows98が発売になり、個人に本格的にPCが普及し始めました。

 

自作パソコンが流行った時期で、私も良いパソコンとインターネット接続環境が欲しくてたまりませんでした。

 

人生初のアルバイトを始め、趣味とバイトにのめり込みました。



友達に教わった当時流行っていた渋谷系のオシャレ音楽にハマりました。

 

貧乏なのに、CDを毎月3万円くらい買い漁って聴きまくるほどハマりました。

 

ライブでの生演奏を聴きにクラブにも通う音楽オタクにもなりました。

 

下北沢CLUB QUEに顔パスでタダでライブに行けるほどになりました。

 

インディーズ音楽に詳しいので、バンドマンが楽器をセッティングしている間、オススメ曲を店内に流すようになりました。

 

ライブハウスの依頼で、曲を紹介するなどしてギャラをもらえるようになりました。

 

当時その界隈で人気者だったボーカルの女の子と付き合い、青春を謳歌した時期でもありました。



ラジオ、映画、音楽、漫画、パソコン、インターネットなどのサブカルチャー系の趣味に深くハマりました。

 

自転車で約30分の大学には足が遠のき、授業には単位を取るための最低限の出席だけして、趣味とバイトに明け暮れました。



私の就職活動の時は、超氷河期でした。

 

一部の優秀な学生が複数内定を獲得し、他の学生はあまり良い就職先が見つからないのが普通といった状態でした。



私は、マスコミ志望で、長年愛聴していたニッポン放送を受験しました。

 

一次試験で「30秒で自己紹介してください」と言われた質問が、事前に読んでいた「面接の達人」という就職対策本そのままだったのです。



それで、スラスラ自己紹介できたことがラッキーでした。

 

面接官の方に「君はアナウンサー向きなんだよね。来週のアナウンサー試験に移りませんか?手続きはこちらでやりますから」と言っていただいたのです。

 

しかし、「若者向けの番組のディレクター志望なので」と断ってしまいました。



今思うともったいなかったかもしれません。

 

結局、3次試験のグループディスカッションで落ちてしまいました。

 

その後のTV局の試験も泣かず飛ばず。

 

なんか、その時点で燃え尽きてしまいました。

 

積極的に活動せずにそのまま就職先が決まらないまま大学を卒業。

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昼は受験勉強、夜はバイト生活の20代

就職せずに、しばらくは大学時代にやっていた郵便局の深夜勤のアルバイトで食いつないでいました。

 

同級生との格差にそれなりに危機感を感じるようになりました。

 

真剣に考えた結果、公認会計士試験を志すことに。



そこそこの大学に一般入試で合格した経験もあり、頑張ればなんとかなるのではないかと、一発逆転を狙ったわけです。

 

公認会計士試験合格者数実績NO.1のTAC水道橋校の2年コースに通いました。

 

しかし、想像以上の大変さに心が何度も折れそうになる日々でした。



いくら勉強してもテストの点数が絶望的に低いまま。



当時、本試験受験のためにクリアしなくてはならない短答式試験のボーダーラインが約7割。


しかし、3年勉強しても4割しか取れず。

 

それでも、早慶クラスの学生でも合格までに平均で3回の受験を要する超難関試験です。

 

3年程度で諦めずに頑張れば合格できると信じて、気づけば受験生活も7年になっていました。



結局、合格できず。



ちょうど30歳になっており、試験制度も大きく変革する時期で、それまでの勉強内容では試験に対応できなくなりました。



ちょうど、母親も定年退職で、いろいろなタイミングが重なったことを理由に、撤退を決め、ハローワークで仕事を探すことに。

30歳で始まったサラリーマン生活

3週間ほどで意外と簡単に就職先が決まり、30歳にして初のサラリーマン生活が始まりました。


職種はIT。

 

しかし、大学では文系学部で、パソコンを趣味程度で触った経験しかない私です。


当然、ITの専門知識がありません。


幸い、事前にITの専門知識が無くても数カ月頑張れば誰でも一人前として働くことができる運用管理部門に配属されました。

 

オペレータという職種でサーバの監視業務です。

 

給料は安いのですが、暇な夜勤中心のシフトで完全週休2日制。

 

上司やお客様の目がない深夜帯であれば、最低限の作業さえしっかりやればOK。


後の時間はスマホを触っていても、数時間休憩を同僚と交代でとっても、仕事自体は回るラクな現場です。



しかし、スキルアップが望めない現場で、他の現場への異動や転職時に役に立つ知識や技術が身につかないのです。

 

そんなぬるま湯に長期間浸かってしまい、気づけばもう41歳。



完全に出世コースからは外れてしましました。


今思えば、私の努力も足りなかった。


長年、現状維持に甘んじてしまいました。


しかし、その現状維持のサラリーマン生活にも限界を感じ始めました。


何か良い副業あるいは脱サラ手段はないかと探していたところ、今の師匠に行きつきました。

師匠と出会い、脱サラを目標にネットビジネスの世界へ

2019年のゴールデンウィーク中に新宿のオフィスに赴き、師匠から直接お話を聞きました。


師匠の指導のもとアフィリエイトで成果を出しているお弟子さんが、既にゴロゴロいるとのことでした。



月20万円~50万円くらいの副収入であれば、コツコツ作業を頑張れば稼げるようになるとの話でした。

 

実際にすでに成果を出されているお弟子さんのリアルなお話も聞けて、強い興味を持ちました。



その場では、すぐに弟子入りを決断できませんでした。

 

しかし、実際に伺ったお話の内容が、師匠の人柄の良さもあり嘘とも思えませんでした。

 

気持ちの上では、お世話になることはほぼ決めていました。

 

一旦話を持ち帰り、師匠のブログやお弟子さんのブログやツイッターを読みました。


そして、大丈夫だと確信を持つことができました。

 

また今の暇な職場環境がアフィリエイト作業との両立に適していることも決め手となりました。

 

1か月後に改めて私の方から連絡をとり、書類にサインして正式に弟子入りしました。

 

2019年6月26日から本格的に、師匠が推奨するSNSを駆使したアフィリエイトを開始しました。


実質的に初月となる7月末までに発生報酬額ベースで約22万円の収益化に成功しました。


師匠は、3日前くらいまでにアポを取れば、直接お会いしての打ち合わせにも応じて下さります。


若くして苦労されてきた方だけあり、物腰柔らかで礼儀正しくもフレンドリーに接してくださいます。


また、私の疑問点にもダイレクトに的確に答えて下さります。



また、月に1回都内で数十人規模で開催される勉強会は、悩めるアフィリエイター救済の場として機能しています。


そこでは、アフィリエイト界のトッププレーヤーの方達に直接質問をして助言を頂けます。


疑問点をつぶすことができるだけでなく、その後の懇談会でもざっくばらんにお話を聞けて大変勉強になります。


モチベーションの維持、向上にもなります。

 

まわりに同じネットビジネスに取り組んでいる仲間がいない中で、相談や情報交換ができる機会があることは非常にありがたいことです。




最後に、

稼げるアフィリエイトを始めたい。

収入の柱を増やしたい。

個人で稼ぐ力を身に付けて脱サラしたい。

今の給料に加えて、会社に秘密で収入を得たい。

私が実践するSNSを駆使したアフィリエイトについて詳しく聞きたい、相談したい。

自由で自分らしい人生を手に入れるために具体的な行動を起こしたい。

など、理由は何でも構いません。

 

私と連絡を取りたい方は、こちらからLINEに登録してご連絡ください。

 

精一杯対応させていただきます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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